東香山耕雲寺

耕雲寺下手渡集落より西方へ約200メートル入ったところに、一見民家と思われるような赤い屋根の建物が下手渡藩ゆかりの「東香山耕雲寺」です。

この寺は、天正三年(1575年)秋、斎藤重蔵はじめ、下手渡の信者達の懇請により、川俣町頭陀寺九世金室全菊禅師が寺窪の地に一宇を建立し「東香山高雲寺」と称したのが始まりとされています。

第四世洞嶽和尚の代に堂宇焼滅し、五世渕大和尚の代に、現在地(上代)に再建し、これより高を耕に改めて「耕雲寺」と称するようになりました。

明治元年のいわゆる戊辰戦争のとき兵焚にかかり、堂宇伽藍がことごとく焼失、とりあえず仮堂を再建明治17年に至りようやく伽藍堂宇が完成したものの、明治35年9月28日の大暴風により全堂倒潰し、また仮堂に戻って今日に至っています。

この地に下手渡藩の陣屋があったときは、当寺を菩提寺とし、国印草高十五石を給されていました。

大位牌と侍墓地

耕雲寺の寺宝の一つに、高さ一50センチ、幅80センチ、重さ20キロに及ぶけやき製の大位牌があり、七百余名の名がぎっしりと記されています。これは、立花一族一門の先祖である高橋紹運が豊臣秀吉の島津討伐のときに先鋒となり、九州の大牟田市、宝満岩屋にて島津勢と戦い、篭城の末全員戦死しました。芳名を千載に残した武士達を慰霊顕彰するために造られた大位牌で、九州より運ばれたものといいます。

寺の境内の南に、下手渡藩主の墓碑が三基と童子と最後の藩主種恭侯の墓標と、一段低いところに藩主と対侍する形で建てられた藩士の墓石があり、これを侍墓地と呼んでいます。

藩侯の墓碑はいずれも笠を戴き高さニメートル近い御影石のものです。向かって左より、

龍潭院殿従五位下立花種周之墓
文化六己巳歳十月十五日卒享年三十有九

真巖院殿従五位下立花種善之墓
天保三壬辰歳十二月二十三日卒享年三十有九

円融院殿従五位下立花種温之墓
嘉永三戊申歳十月十七日卒享年三十有八

最後が真禅自性童子の碑です。種恭侯の墓標は木柱です。種周侯から種恭侯までいずれも江戸で亡くなられ、江戸に埋葬されました。

藩士の墓碑のほとんどは藩主に向かうように建てられ、死後も忠誠を尽す心を表わしていると言われています。

大位牌及び墓地は、数少ない下手渡藩ゆかりのものとして昭和四十四年に町の重要文化財に指定されています。
  

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