小志貴神社

小志貴神社町道上手渡線の傍らに立つ大鳥居が、小志貴神社の一の烏居で、ここから神域とされています。その一の鳥居から南西の方向に七百メートル進むと、杉木立の中に小志貴神社が鎮座しています。参道入口には、町指定重要文化財「小志貴神社牡丹獅子舞」の案内があり、この鳥居をくぐって石段を昇ると左右に部屋のある珍しい形式の表拝殿があります。その奥に拝殿、本殿が瓦葺きの重量感のある美しい姿を見せています。

当社は、天児屋根命を祭神とし、山陰中納言実友卿が神徳を感じて永久五年(1117年)に勧請建立したものと伝えられています。一説には豪族や支配者の崇敬する社と言われます。文永六年(1269年)、天正十五年(1587年)、寛永六年(1666年)、貞享元年(1687年)等の棟札が納められており、歴史の古さを物語ってくれます。

信達一統誌には、「むかし、甑敷内(こしきうち)という所より光明輝き、託宣があったのでお祀りした。それで甑敷宮と称するが春日大明神である。この村では甑敷を用いないし、用いるときは禍あると言われている…」との記事があります。これが社名の起こりでしょう。

上手渡地区には寺がなく、神葬祭が多いということも関係してか、境内には御神輿御神馬庫のほか、八幡神社、金比羅神社、天王様ほか多くの祠があり、里人の信仰の場でした。

牡丹獅子舞

小志貴神社には、隔年に奉納される三匹獅子舞があります。この舞の歴史は大変古く、天正十五年(1578年)、時の神官第十四世渡辺大蔵坊が里人とともに神社の再建をしましたが、それを喜んだ村人によって奉納されたのが始まりとされています。以来四百年間盛衰はありましたが今日まで継続されてきたものです。
もともと、この獅子頭は竹籠に張り子といった粗朴なものでしたが、明治四十三年篤志家により木製の獅子頭が寄進され、現在は木製のものを使用しています。

演技者の中心は、獅子児と軍配団扇もちの子どもで、氏子の長男から選ばれるのが原則です。

獅子舞の内容

長い冬眠を終わらせた獅子たちは、暖かい春を迎えてようやく活気を帯びてきた。田を耕し、種子を蒔き、農作物にあだなす鳥獣を追い払いひと段落した頃、牡丹の花の咲き競う花園において、しばしこの世の春を心ゆくまで楽しむのであった。そして、この自然の恵みの中で、一匹の雌獅子を求めて二匹の雄獅子が相闘う。やがて両者は力の差が次第に現れ、ついに後獅子は先獅子の前に屈服しなければならなくなる。
力尽きた後獅子は、先獅子の前に和を請い臣従を誓うことになる。牡丹の花の咲くこの里にも再び平和が訪れる。

1. 道きり(道中の舞) 2.おんでん舞(参拝の舞) 3.舞いこみ(挨拶・敬礼の舞) 4.でんす(田畑耕作の舞) 5.そうばん(鳥追いの舞) 6.おかざき(悪魔退散の舞) 7.かかし舞(楽園・団らんの舞) 8.うたぎり(庭がための舞) 9.花まわり(歓喜・歓楽の舞) 10.牝じしかけあい(牝獅と争う舞) 11.舞いがため(平和再来の舞) 12.花もぎり(万歳楽の舞)

(「月舘町の民俗」、「ふるさとの小径をゆく」より)
 
牡丹役の“花笠かぶり”、争い傷ついた獅子を介抱する役“漢方医”などは、牡丹獅子舞独特のものである。

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