第一集「地名に関するむかしばなし」

水沼の赤まだら牛

むかしむかし、無垢路岐山(むくろぎやま)と太郎坊山の谷間は広い広い千畳敷(せんじょうじき)もある沼だったそうだ。

沼の岸は古い谷地で草や木が生い茂り、谷の合間の辺はいつも「ふった、ふった」(古田)と波が立っている深みであったという。
その沼に「赤まだら牛」という沼の主が住んでいた。
この地を安住の地としていたが、天地の異変でその沼がぶんぬけ(桧木田)赤まだら牛は、沼の水と共にひょいと(兵衛田)とんだり、はねたり(羽石)して、のんのが(布川)のんのがと流され、つきあたった(月舘)ところは広瀬川、そして流され着いたところが「越河の馬沼」であったという。
そして赤まだら牛はその沼で馬と共に住むようになった。 その沼は、今は「馬牛の沼」と呼ばれている。

赤まだら牛はむかしの水沼恋しさのあまり、夜な夜な、丑三つ時になると「水沼恋し、もおう、もおう」と泣いたという。そして、もとの千畳敷の水沼にしたものは長者にするといったそうだ。
今は、昔の赤まだら牛の住んだ水沼をしのぶかのように、字水沼の湿田の一隅に昔から清水が出る小さな古池があり、その古池を水沼の水神様として、集落の人々はその年の豊作を祈り、また雨を呼ぶ神様として信仰を続けている。

金石の蛙合戦

 宝暦元年9月21日というから西暦では1751年に建立された「蛙の供養碑」が、現在もなお上手渡の金石という部落に建っており、これにまつわる次のような話しが伝えられている。
それは、元文年間(西暦1736年頃)のころ、いやそれ以前かも知れない。

とにかくその頃がこの「蛙合戦」の最も激しい戦斗があった時代か。この戦は、毎年季節を待って行われ約10年は続いたろうという事であった。 毎年3月未から4月初めになると、何処からともなく長い冬眠から覚めた何万という数知れぬ蛙共が集まりだし、双方に分れ鬨(とき)の声よろしく戦斗が開始される。

その雄叫びは山々にもこだまし、その戦の凄まじい事、或る者は噛み、ある者は蹴り合い飛び交い、力の限りを尽くしての文字通りの死斗であった。
こんな小さな蛙ではあるが、その数も数万、しかも死にものぐるいの声を挙げ入り乱れての戦いは、見る人々を戦慄させたことは確かである。人々は、これ程までして戦わねばならないのか、この合戦で田畑を荒らされた事よりも、蛙同志が戦わねばならぬ宿命の因果関係に、むしろ胸の痛む思いをしたという。

昔 古戦場であったところには、他の地方にもこれと似たような話しで螢合戦とか、蟹合戦などもあるということを聞き、それではこの地にも昔その様な事が有ったのではないかと疑念を持ち、早速法印により加持祈祷を行なった。

しかし依然として毎年この「蛙合戦」は繰り返された。

そこで名主、市郎兵衛は、何か怨霊のいたすところであろうと、土地の人々と共に、高さ四尺(130cmほど)、幅一尺三寸(35cmほど)の碑に「南無阿弥陀仏」と刻み、これを古戦場であった傍の大石の真中に建てた。

お経を唱え鉦を叩きながら死霊退散と蛙霊の追善供養を行なったところ、その年からこの合戦はピタリと止んだという。

月舘から糠田を通るバス停留所に金石があり、その真下に十人以上楽に座れる平らな巨大花崗岩石がある。
その真中に碑が立っているのが、この話の蛙の霊を弔った供養碑である。また、その供養の時に鉦を叩いたことに因んで「金石」の地名が起ったとも言われている。

宣撫沢(せんぶさわ)の由来

(1)
布川御前堂の川向いに、小さな谷間になっている窪地がある。
これは宣撫沢(せんぶざわ)又は千本沢と言われてきている。

ここは昔から非常に寂しい所で、夜な夜な怪しげな妖怪が出没し、何時も里人を苦しめていた。里人は恐れおののき、昼でさえ近づく者が無かったと言う。

ある日、この里人の難渋を知った一人の旅の高僧がやってきて、いく日かに渡り有り難い「宣撫(せんぶ)」のお経を施したところ、霊験たちどころに現われ、さしもの妖怪も以後プッツリとその姿を現わさなくなったという。

里人はこの有り難い宣撫のお経からとって、ここを「宣撫沢」と呼んでいる。

(2)
小手姫さまがその娘錦代皇女(にしきでのおうじょ)を伴い、息子である蜂子皇子(はちこのおうじ)を探し求めて遥々この地、布川に来られ、ここで機織の業を広められておられた。

錦代姫の美しさに魅せられた、近郷近在の若者達が姫の意を得んものと寄り集り申し入れをした。姫はこの時使いの若者に「毎夜、宣撫沢に錦木を1本ずつ立て、2年9カ月で千本を立てる事の出来た勇気と根気のある若者に、我が意を叶えさせる」と言い伝えた。

それから若者たちは、毎晩勇気を振り絞って恋の錦木を立て続けたという。

このことに因んで、昔の「宣撫沢」は後に 「千本沢」と呼ぶようになったという。 果して、千本の錦木を立てた若者がいたかどうかは知る由もない。

九人塚の話

今からおよそ六百年の昔、南朝の忠臣、霊山城城主北畠顕家は陸奥の大軍を率いて、朝敵足利尊氏を討つため西上した。時に延元3年のことである。

顕家の出発した後の霊山城には、広橋経泰らの武将が僅かに残り残兵を指揮して賊の攻撃を退けて城を死守していた。北朝の将相馬氏は、毎日のように四方から霊山をめがけて攻めたてて、激しい戦はいつまでも止む気配は無かった。

そのうち顕家が泉州の堺浦の戦で破れ、石津で戦死した知らせが留守を守る霊山の城にも伝えられた。

一族郎党皆その悲報にうちしおれ、もうこれまでなりと自害する者、あるいは敵中に斬りこんで戦死を遂げる者、夜にまぎれてあてもなく城を逃げ出す者など、一日一日と城の中は寂しくなるばかりだった。

顕家の夫人をはじめ武将の妻、兵士達の家族たち九人の婦人たちも何とかこの危機をきりぬけようとしめし合わせて、佐須をこえて南のほうに道を求めた。しかし九人の奥方や娘達は疲れる足を引きずって、細布の三拍子というところまで辿り着いたが、空腹と疲労のためどうすることも出来なくなった。

激しかった霊山の戦と夫や親や子の行方を心配し、これからを思うとこれ以上、生きていることのむなしさをひしひしと感じ始めていた。

ちょうどそこは、大きな笠松が一本たっていた。九人の婦人たちは、その笠松の下に寄り添って折から降り出した雨をさけていた。しかし雨は強くなるばかり、日暮れになろうとしているのに一向止む気配が無かった。

武将の奥方が涙ながらに最後の話を続けた。

「もうとても逃げ切れない。この上は死んであの世で再起をはかり、亡き夫や子どもと手を取り合って、天朝様のために尽くしましょう。」

と相談を持ちかけた。誰も反対する者はいなかった。いつまでもいつまでもすすり泣く九人の涙声と夫や子を呼ぶ切ない叫び声が、雨の夕暮れに聞こえていた。

そしていたましくも、折り重なって自害し果てたのであった。

村の人々はこのことを聞いて嘆き悲しみ、九人の霊を祀って椿の木を植えた。この椿は毎年春になると、九人の霊が喜んでいるかの様に、真っ赤な椿の花が咲くのだった。

その後、村人たちはこの椿の下に九人の霊を弔うために小さな石碑をたてた。しかし明治の頃、その石碑も誰かの手によって別の場所に移され、今はそこには何も無くなった。

ただ椚塚という地名だけが残っていて、昔の物語を今に伝えている。

大徳坊の足あと

むかしむかし、何千年も大昔のこと、月舘糠田の辺りは霧が窪と呼ばれていた。

空までとどくような大男が住んでいて、機嫌が悪いときに大徳坊山と経塚山に足をかけて太陽の光をさえぎり、村は鬱蒼としていたのだ。おかげで村人たちは米がとれず大変困っていたのだが、大徳坊は誰の言う事もききかない。

しかし、機嫌のいいときには、村人が刈りとってきた稲の穂をこき落したり、大きな手で実の入らない稲穂をもんで軽いもみ殻を空に吹き飛ばしたりしていた。

そのもみ殻がうず高く積もったところが大糠塚で、少し積もったところが小糠塚だといわれる。その後、大徳坊も年をとったので、何処へ行ったのか村人達の知らないうちに姿が見えなくなった。

それからはこの村にはよいお米がとれるようになり、霧が窪という地名は無くなって糠田村となったといわれる。しかし大徳坊の足あとは今も経塚山の山上に残っている。

大徳坊が登場する民話は福島市にもあり、その話によると大徳坊は信夫山を作ったとされている。

出典

月舘町伝承民話集
おらがまちのとおい昔ちかいむかし