つきだての戦争

20世紀の戦争はつきだてにも暗い影を落しました。働き盛りの男性の多くは徴兵され、月舘に残った者も生活を切り詰め、町民、国民皆が否応無く戦争に巻き込まれました。

戦争によって、供給しなければならない食糧、衣類、武器弾薬、輸送手段、どれをとってみても従来よりもはるかに多い浪費がなされているのに、徴兵によって労働力が不足したことにより生産力が落ち、農作物や工業製品もたちまち不足をきたすようになりました。また、欧米との外交関係の不協和音の高まりから、日本が海外に依存しなければならない石油を始めとする地下資源などが思うように輸入できなくなり、物不足は一段と加速されます。この様な状況は、戦争が長期化するにともなって、年とともに深刻さを増していきました。

太平洋戦争がようやく終結したあと、町には戦没者を弔う慰霊碑が建てられました。今も中央公民館前にひっそりと立ち、お盆の頃には遺族により線香が手向けられます。

現在のような農業機械はほとんど無く、村に1台か2台あった石油発動機と脱穀機がわずかに特配の石油を使って稼動していたので、その機械が回ってくるのを順番待ちしてようやく脱穀できるという状態だった。機械が回ってくると、夜も昼もなく作業に取り掛かり、24時間体制で脱穀を続けて次の家に回す。作業は家族総出で行い、ようやく終わらせることができた。(「月舘町史」より引用)

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